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悠渓(ゆうけい)

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ペン字の練習記事を中心に、男子ごはん、映画、アホネタ、おばか絵など、日々の出来事を綴っています。

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02月18日(土)

曼殊院本古今集を臨書する(六)

《今月の課題》
かしはぎの もりのわたりをうちすぎて

課題を観察しますと墨の濃淡が様々に変化しています。
磨った墨の濃度や筆の穂先に含ませた墨量を調整しながら、
臨書をするわけですが、課題に合わせて書くのは非常に難しい~。

てか、無理(・o・)ノ

《読みと大意》
読みと大意:かしはぎの もりのわたりをうちすぎて

《清書》
清書

古筆は色とりどりの料紙に書かれていますが、
この書道誌では、かな半紙に臨書をする事になっています。

かな半紙は厚みや滲み具合の違いによって種類が分かれており、
わたしが使っているのは滲みが少なくてかなり薄いタイプなので、
黒い下敷き(フェルト)の黒色がけっこう透けて見えます。

書き終えたあと半紙を白い紙の上に置き直してみると、
下地の白に影響されて先程よりも墨色が淡く見えます。
(もう少し濃い目の墨で書けば良かった…)(汗)

下敷きの影響

下敷きの明度をある程度、考慮しておかないとマズイようです。
次回からは白か緑色の下敷きに変えてみようかな。


 
02月11日(土)

ペンの光 1月号 清書 H29 

昨年度の反省から練習時間の不足を補うため、
購読している、かな書道の競書誌のうち1冊を休んでいます。
(実際は止めたくないので春に更新してしまいそう)(汗)

さて、ペンの光です。今月は規定部のほかに、
かな部と漢字部の課題にも取り組んでみました。
規定部の方はこんな仕上がりです。

規定部 清書

それにしても、日ペンの「の」の字形は、
どうしてわざわざこんなに複雑な形にしてあるのかと、
いつも思います。非常に書きにくい。(汗)


次に、かな部ですが、小さめに書いて余白を広く残す布置が好きなので、
まずは字粒をちょっと小ぶりにしてみました。

かな部課題 練習

余白をどう残すかは考え方や好みにもよると思いますが、
これだと見方によっては、ちと貧弱かも。
もう少し紙面を広く使う事にします。

「か」は好きな形だけど、このままだとあまりに普通すぎるかな。
「地」の形は綺麗じゃないな。どうも気に入らない。(`ε´)

「耳」はもっと大胆に長~くしたいけど、
1行目の「し」も長いので、並ぶと、くどくなるかもしれない。

もう少しメリハリも付けたいが、そうなると、
字粒も変えなくては…。ううむ…。どうするのが一番いいか。。。
まずはデフォルメ、一からやり直し(`ε´)
あれこれ悩みつつ、全体的にいじってみました。

かな部 清書
(雅印は「悠」です)

けっきょく当初の予定よりも大き目の字粒でまとまってしまった。
(もう少し小さめにしたいという気持ちも引きずっているけど)

わたしの練習方法は布置や変体仮名の選択などを変えながら、
何通りも書いてみて、しばらく寝かせたあとで、
パッと見た時に気になるところを修正、全体的に、
自然に見えてくるまでこれを何度も何度も繰り返すようにしています。
行き詰まってどうにも進まなくなったり、あるいは逆に、
完成したように思える段階が来たらそれが自分の限界。

(かな単体の練習から始めて古筆の臨書や目習いへと進んで来ましたが、
まだ自分の中に基準のようなものが出来ておらず暗中模索の状態です。)

構成だけでも無数の組み合わせがあり、
正解の形が一つに決まっているわけではないので、
年月をかけて勉強しながら、自分の審美眼を磨いていくしかありません。


次に漢字部。楷行草の三体で熟語を書く課題です。
一目で字体の違いを比較出来るので分かりやすい。

漢字部 清書

ただ、漢字のみ30字もあって、これらをすべて、
テキスト無しで綺麗に書けるようになるには、
当然ながらそれなりの練習量が必要になるので、
規定部やかな部に加えてこの漢字部の課題まで毎月こなしていくのは、
時間的に厳しい気がします。

今年は何より練習の密度を高めることを念頭に置いて、
出来る範囲の事のみ、テッテーテキに行いたい。


 
02月05日(日)

歌人の感性

昨日、NHKをつけたらドキュメンタリー番組をやっていて、
一人のセーラー服姿の少女が映っていた。
何をしている子なのだろうと思って見ていると、
『鳥居』さんと言って、いま注目を集めている若き歌人なのだそうだ。
しかし彼女の詠む短歌は変わっている。

ここから先の記事は(ちょいと暗いので)当おばかブログの雰囲気とは合わない。
それに今日は日曜日ということもあって、
ほっこりした気持ちで過ごしている人たちには気が引けてしまうのだけど、
しかし迷った末に、やっぱり続きを書くことにした。
たまには暗い内容もいいかなと思う方は、読んでみてつかあさい。
(そんなわけでいきなり以下のごとく話から)

たとえばどこかで、ある少女が校舎から身を投げたとする。
ああ、きっとまたイジメが原因なのだろうと、
世間の多くの人たちは地上に倒れたその少女の姿を思い浮かべる。
しかし鳥居はそうではなく校舎を見上げて、
その先にあるものを見つめるのだ。

揃えられ主人の帰り待っている 飛び降りたこと知らぬ革靴

こんな短歌も…

道端で内蔵晒す猫の目は あおむけのまま空を映して

ううむ…
ふつう、そっちへ行くか?想いが!(汗)
悲しすぎる。

このような感性はどんな環境から生み出されたのだろう?

物心がつく前に両親が離婚
小学生のとき、うつ病を患っていた母親が目の前で自殺
施設で育つが虐待を受ける
若くしてのホームレス体験
拾った新聞で字を覚える──
これが彼女の半生。大人でも耐え難い!(汗)

番組内で、笑顔を見せて話していた鳥居に、番組スタッフから、
「どうして笑顔で話すの?」との問いかけが。
わたしが思うに、きっと彼女は周りの人たちに、
彼女なりの気配りをしていたのだ。
短歌からも伺えるように彼女は感受性が豊かで、
辛い過去を背負っている分、
他者に対して優しい子に違いないと思う。

セーラー服姿の歌人ということから、
商業的であるとの批判も少なくないらしいけれど、
「小学校(3年生までで)中退」と語るご本人によれば、
セーラー服を着るのには深い意味が込められていて、
大人になってからでも(必要とする人には)
義務教育を受け直すことが出来るような世の中であってほしいとの、
強い意思表示なのだそうだ。学びの象徴なのだから、
ヘンな意味にとってはいけない。

(そう言えば、さっき彼女のツイッターのプロフィールを見たら、
『セーラー服の理由は、デモ あるいは 身体芸術 and more?』
とも書かれていた。)
頭の良い子なので彼女の感性はそういう側面も見過ごすことはない。
確かに女性の體が美術の分野において、
重要なモチーフであり続けている事は異論のないところ。
(+セーラー服となると最強かも)(汗)

鮮烈な印象を残す彼女の短歌は、
この先、ますます磨きをかけ、世間の注目を集めていくと思う。
もっとも彼女自身は、
「しばらくしたら(自分の存在そのものが)忘れ去られるのは分かっている」
と謙遜する。
聡明な女性だし、そんなふうに持ち前の冷徹なリアリズムから、
自己分析をしているのかもしれないけれど、
彼女を支持する人たちは今後も間違いなく増え続けて行くだろう。

そして彼女自身の暮らし向きもこれから少しずつ改善され、
トラウマが一日も早く癒える事を望みつつ、
さらに彼女には短歌の師だけでなく、
今後の生き方に大きな影響を与えるような、
優れた教育者(ヘレン・ケラーを救ったサリバン先生みたいな指導者)
に巡り逢えることを願う。

セーラー服の歌人《 鳥居 》キリンの子 (@torii0515) | Twitter


【追補】
長年の辛い体験から鳥居は、
《心的外傷後ストレス障害(ptsd)》を発症、
現在、医師から就労を禁止されている。

ドキュメンタリー番組では時に笑顔も浮かべていた鳥居だが、
実際のところ彼女は人と会うことさえままならず、
公衆の面前でいきなりポロポロと涙を流しながら、
心情を吐露したりもする。
精神的に非常に不安定な状態で心に大きな傷を負いながらも、
世間的には「にこやかに生活していてどこが病気なのだ?」
と誤解し、全く理解しようともしない人たちも少なくない。
彼女ほどの辛苦は舐めていないものの、
わたしは心労で倒れた経験があり、
その辛さは多少なりとも分かるつもり。
一日も早く彼女の心の傷が癒やされることを祈る。


本2冊

歌集『キリンの子』は鳥居の処女作である。
関心を抱いて読みたくなりAmazonで検索したときには、
ベストセラー第1位でしかも売り切れだった。
中古にプレミアが付いているような状態。
けっきょくカドカワのサイトで注文したのだが、
本が自宅に届いた2月10日は(あとから知ったが)
奇しくも『キリンの子』が出版されて満1歳の誕生日であった。

それはともかく、早速、読み始めると、中ほどに、
とりわけ引き込まれるこんな一首が…

病室の壁の白さに冴えてゆく 意識のすみに踏切の音

静謐で寂寥感がある。
無彩色の白い部屋も脳裏に浮かぶ。
「踏切の音」について、
わたしは深く考えることもなく読み進んでいく。
すると、こんな一首が…

遮断器の黄色と黒の縞々を つかんでふいにくぐりぬけゆく

ある日、鳥居は友と二人で道を歩いていた。
ところが警報音が鳴り響く踏切のところで、
その友がいきなり遮断機をかいくぐり、
驚いて呼び止める鳥居の目の前で線路内にうずくまり耳を塞いだ。

後日、鳥居は目を背けることなくありのままに、
そのあと起こった凄惨な光景を歌に詠む。
淡々と紡がれる言葉たち。この恐ろしさは何なのだ…
誰しもそのリアリティに慄然とする。

もちろん彼女はほかに優しい歌もたくさん詠んでいる。
しかし鳥居にとってその出来事は、
時が流れても色褪せることはなく、
日常の中に踏切の音が容赦なく紛れ込むたびに、
彼女はずっと苛まれながら生きて来たのだろう。

幼い頃から傷つけられてきた子供は、
感覚が研ぎ澄まされていて非常に繊細であり、
とても壊れやすい。
それに加えて感受性が豊かなため、この子が感じる心の痛みは、
普通の人とは比較も出来ないように思う。
些細な事がきっかけになって脆くも心を抉られてしまうのだ。

そうした痛みを鳥居は詩的に昇華させ、
「芸術の愛される社会を目指したい」と語る。
それはきっと現実の場所から離れ、
精神が遠く深く高く飛翔して行ける、心の居場所のある世界なのだろう。
わたしにとって芸術とはそういうかけがえのないものだ。

屋上に靴を脱ぎ揃え、遮断器をくぐり抜け、薬を口いっぱいに頬張って、
消えていなくなってしまった人たち、
鳥居の中で生き続けている彼らも、その世界では自分の居場所を見つけて、
安らいでくれるのではないか。
歌集『キリンの子』を読み終えて、わたしはそんなことを想う。